父は吉田茂。長く英国で学んだ作家の“夢の旅”とは
考えて見ると、旅というのは日常生活からの解放であって、それだけに、寂しいものでもあるので、それを飲んだり食ったりして紛らわせている訳なのである――『汽車旅の酒』(吉田健一/中公文庫)より
何の用事もなくて旅に出るのが夢……。大政治家の吉田茂を父に持ち、イギリスで学び複数の外国語を使いこなした知識人が夢見たのは“日常からの解放”としての旅でした。
駅でビールを買って汽車に乗り、ほろ酔いで着いた先でまた土地の酒を飲む。
長い修業期間を経て文筆家デビューを果たしたワーカホリック気味の作家が、日常生活からの解放として愛した旅と酒。『汽車旅の酒』は、国内外を酒を片手に旅した思い出と、自身のライフスタイルについてまとめた随筆集です。
出版社から渡された札束がどんどん薄く…
翻訳と文芸評論で鳴らした作家、吉田健一。常に仕事で忙殺されていたという彼は、「この原稿を仕上げたら京都に旅行させてもらう」という条件を出版社に突きつけるほどの旅行好き。
約束通り千枚以上の翻訳原稿を完成させ、分厚い札束とともに汽車の切符を受け取った吉田さん。ほくほく顔で汽車に乗り込み、さっそく宴会をスタート。京都でも散々飲み食いし、さて次の目的地へと駅に着いたところで、金がほとんどなくなっていることに気づきます。
大慌てであちこちの出版社に「タノム」と電報を打ち、ひやひやしながら知人の待つ岩国に着くと、知人から電報為替がたくさん届いていると聞かされてほっと一安心。
風光明媚やアートより、大切なこと
寂しくて、腹が減っている上に碌に飲めもしない時の名画、大建築、風光明媚などが何だと言いたい。変に気持をいらいらさせるだけで、そんなものは何もないよりもなお悪い――『汽車旅の酒』より
八つ当たりのように「酒が飲めないときに、風光明媚なんて何になる!」と書く吉田さんが、なんとも滑稽でおかしい。
仕事に家事に、煩わしい人間関係……。日常に押しつぶされそうになる前に、ビール片手に汽車に飛び乗る。
そんなことが定期的にできればいいのにと、昭和の大作家と心がシンクロしてしまうはず。